1. 開業前後


 遡ること1888年、明治丸によって数名の調査団が瑞霞諸島に上陸し、島の調査、開拓が始まりました。

 1889年、勅令により、瑞霞諸島は島名を「瑞島」、「霞島」、「果最島」と命名され、当時の東京府小笠原島庁に編入されました。

 少し時がたち、1906年、日本国は日露戦争を受け、太平洋の拠点となる瑞霞諸島に海軍工廠を設置することを決め、その場所が果最島となりました。

 そして1907年、果最島海軍工廠が開設されました。工廠の資材輸送に際し、工廠周辺の各工場から部品を集め、それを工廠に移送するための手段として、同年に瑞霞電鉄の前身である果最島人車軌道が開業(瀬野井~工廠間)しました。

 1910年,軽便鉄道法が定められたことにから○○は内務省に申請し免許を取得,果最島に鉄道の敷設が始まりました.敷設に当たり,鐡道建設規程(明治33年8月10日逓信省令第33号)第九條に反するため,特許を取得.1435 mm 軌間で敷設が進められました.

 1911年,集~工廠間が開業しました.

2. 黎明期


3. 太平洋戦争


4. 太平洋戦争終結後


 1945年、日本国は連合国軍に敗戦。果最島海軍工廠等様々な施設が軍に徴収されました。

 1972年、沖縄本島と共に瑞霞諸島が返還され、軍が保有する鉄道は全て瑞霞電気鉄道が譲り受け、新たな歴史をスタートさせました。

 1973年、瑞霞諸島は日本国から独立しました。

5. 研究学園都市計画


 1979年、お国は先進的研究学園都市を造ることを決め、5年後の1984年に瑞霞諸島に決定しました。それからは一部住民の反対運動が起きましたが、多くの島民は諸島外へ人が流出し、徐々に衰退していく環境にあったため、この知らせを好意的に受け取る島民の方が多かったようです。

 1994年、お国より研究学園都市計画が発表されました。これには瑞霞内海に人工島を2島建設し、人工島への交通手段は鉄道、船、乗合自動車を用いて移動する計画も盛り込まれました。

 本来は人工島へ通ずる交通手段は鉄道のみとしていましたが、1両の長さが短い瑞霞電鉄では輸送力が到底足りないため、他の交通手段も用いることとなりました。

 この際に、思い切って大型車両を導入してはどうか、という意見が出ましたが、検討を重ねた結果、現状のままの設備を使用し、両数や運行本数の増加で対応することとなりました。このときに、将来の6両編成化に向けて様々な工事が行われています。

 調査が終わり、本格的に研究学園都市の整備が始まったのが1996年です。瑞霞電鉄も新線建設に伴い、お国から大量の補助金を融資して頂きました。この頃から瑞霞電鉄は補助金の美味しさを知るようになり、事あるごとにお国から補助金を頂くようになりました。

6. 現代


 研究学園都市が造成され、200x年に瑞霞大学が開校しました。全国中から国の将来を担う優秀な人材が瑞霞大学に入学しています。新線が開業した瑞霞電鉄は、今も学生輸送等に対応するため、お国から支給される補助金をふんだんに活用し、既存の設備を大幅に改良、新型車両も増備されつつあり、新たな時代の幕開けとなっています。